パプリカ
まず、いつもだったら10時に起きるところ、頑張って8時に起きた。一階へ続く階段を大きな欠伸をしながら降りる。
リビングに着くと、テーブルで朝食を採っていたお母さん、お父さん、そして弟はお互い顔を見合わせて、目を丸くした。
「ありえねえ! まだ8時だぜ? 姉ちゃん目覚ましセットする時間間違えただろ!」
ウインナーの刺さったフォークを右手に持ったまま、弟が叫んだ。失礼な。
「……今日どこか出かけるの?」
恐る恐る、といった様子でコーヒーを飲みながらお母さんが訊く。用事がない限り、私が早起きすることは滅多にない。でも、だからってこんなに驚くことはないだろう。お父さんも、読んでいる新聞を下げて、ちらちら視線を寄越す。ちょっと家族の反応にうんざりした私は「うん。街に行くの」とそっけなく答えた。
さっさとトーストとサラダを食べ、歯磨き、洗顔を済ませる。パジャマから先週買ったばかりの、薄いピンク色のワンピースに着替えた。
よし、下準備オッケー。
化粧ポーチを洗面所に持ってきたら、変身、もといメイクを開始する。
20分くらいで全部終らせて、今度は髪をブローした。それからちょっと経ったところで、弟に「洗面所そろそろ使いたいんだけど」と言われた。「はいはい今出るよ」と返事をしながら、洗面所のドアを開ける。
「げ、誰だよ」
顔を見ての、弟が発した一言目に私は満足感を覚えた。にやり、と笑う。断じて私はナルシストではないけれど、今の私は自分でもかなり可愛いと思う。睫毛はビューラーでそれこそ人形みたいにクリンと上がっているし、マスカラもちゃんと二度塗りされている。眉もきちんと書いたし、アイラインも、がたがたにならず綺麗に引けた。しかも今日はリップクリームだけじゃなくて、ちゃんとグロスもつけている。ワンピースに合わせた色の。髪はさっきドライヤーで丁寧にブローした。香水もつけたし。ちなみに爪も形を整えて、コーラルピンクのマニキュアが塗ってあるから完璧。勿論はみだしてなんかいない。もしかしたら、ノブと会うときより気合いが入ってるんじゃないだろうか。
「可愛いでしょ?」
わざと上目使いで言った。
「……女ってこえー。姉ちゃん別人じゃん」
弟は思いきり眉を寄せた。でも別人は言い過ぎだと思う。
「街ってなに? ノブさんとデート?」
今度は弟がにやり、と口角を上げる。
弟はノブのことを知っている。本当は気まずいし、弟には彼氏のことなんて教えるつもりは全然なかった。だけど、一生の不覚。ついこの間ノブとふたりで帰っているところを目撃されてしまったのだ。その日は家に着いてから弟の質問責めにあった。最初はクラスメートだよって言って誤魔化そうとした。でも、じゃあこれはなんだと私の机から写真を出されて、言い逃れ出来なくなった。写真は夏休みの最後、ノブの部活が奇跡的に休みだった日に行った遊園地でのツーショット。隠しておいたはずなのに。推理小説の探偵顔負けである。刑事から証拠つきつけられた犯人のごとく、私は言葉を詰まらせた。
結局、両親への口止料として私はこいつに駅前にあるケーキ屋のフルーツタルトを奢るハメとなった。よりによって、1個800円もする1日10個限定やつ。損害は大きい。しかし、私は条件をのんだ。
そしてそのときから、弟はノブのことをノブさんと呼んでいる。
「まあ、ノブさんカッコイイし、姉ちゃんはそんぐらい頑張んなきゃ釣り合わねえよな」
からかうような口調で弟が言った。私は片眉を上げる。
「違う。美容院行ってくるだけ」
「え、美容院行くだけでそんな気合い入れるわけ?」
「うるさいなあ、もう」
洗面所使うんでしょ、と弟の肩を両手で押した。
私が二ヶ月に一度通っている美容院は、街中にある。そのせいかお客さんもみんなお洒落で可愛くしてくる。これから彼氏と待ち合わせっぽい、淡い色のスカートを穿いたOLの美人なお姉さんだとか、いまから合コンなんです、って美容師さんに話しているメイクばっちりで肩の開いたVネックのセーター着た大学生だとか。だから、すっぴんにジーンズにパーカー、なんていう恰好だと、とてつもなく浮いてしまう。私がいろいろ身支度するのも不可抗力だと思う。でも、理由はそれだけじゃない。
本当は、今日美容院へ行く予定はなかった。ノブが、「今度の日曜日は部活午前かもしれない」って言うから。「暇だったら午後から会わねえ?」って言うから。
私はとても楽しみにしていた。海南のバスケ部は全国でも有名な強豪で、部活が休みの日なんてほとんどないのだ。この薄いピンクのワンピースも、ノブとのデート用に友達が選んでくれたものだった。それが昨日の土曜日になって、ごめん、明日部活午後までになった、と夜電話がきた。ノブがバスケを本当に頑張っているのも知っている。私はいいよ、気にしないで部活頑張ってね、と言って電話を切った。
しんとした暗い部屋でひとつだけ黄色く光っている子機の外線ボタン。それを見つめていると、口から出た言葉とは裏腹に、だんだんとさみしくなってしまった。そこに立って、初めて自分がすごくノブに会いたがっていることに気づいた。
明日、暇になっちゃったな。
ぼんやりと思いながら、子機のボタンをかちかちいじって、もうすっかり覚えてしまったノブの家の番号を押した。けれど、とうとう一番最後の数字ボタンを押すことはできなかった。別に理由はなかった。ただなんとなく声が聞きたい気がした。ついさっきまで電話していたのに。
昨日の夜、私はどうしようもなく悲しくて孤独だった。
電話をすることは諦めて、子機を戻そうと立ち上がった。すると、勉強机の上にある、いつも通っていた美容院のカードが目についた。そういえば、最近行ってない。私は思いついた。そうだ、明日美容院へ行こう。思いっきり可愛くして行ってやるんだ。そして全部忘れてすっきりしてこよう。すぐにカードを手に取り、子機を戻しかけた手を引っ込めて、予約を入れた。
開店の時間に予約したからか、美容院は割りとすいていた。たぶんこれから混んでくるのだろう。美容院って、なんだかどきどきさせる独特なにおいがする。
受付で名前を告げると、担当の、松田という名前のオニイサン(といっても年齢的にはおじさんで、本人曰くオニイサン)が出てきて、久しぶりですね、と笑った。オニイサンは相変わらず、風変わりな服装をしていた。それに私は安心した。
バッグからハンカチだけ抜いて、コートと一緒に預けた。そして受付からすぐの、待合室のようなところに案内された。清潔感のある真っ白な椅子に座る。
今日はカットでいいんだよね? どうしたいか決めてる?
オニイサンに訊かれて、とりあえず5センチくらい切りたいんですけど、具体的には決めてないんです、と答えた。するとオニイサンがラックから雑誌をいくつか持ってきてくれて、これなんかどう、といろいろ提案してくれた。
髪型を決めてから、オニイサンはじゃあここは春っぽくもうちょっとすこうか、とか前髪はあと1センチくらい切ってもいいかな、とか鏡を見ながら説明してくれた。けれど、私の意見よりオニイサンのを通した方がいいに決まってる。私は素直にそれでお願いします、と言った。
シャンプーは若いオネエサンにしてもらった。初めて見る顔で、頭を大きなおだんごに結っている可愛い人だった。
「高校生ですか?」
そう訊かれて春休みが明けたら2年生です、と告げた。オネイサンは、「それは青春ですね」と柔らかに笑って言った。はあ、でも彼氏にデート部活だってキャンセルされて、天気の良い日曜日に暇つぶしで美容院に来てる甘酸っぱいどころか塩辛い青春を送っている高校生なんです、私は。心の中でぽつりと呟いた。
シャンプーが終わると、私は案内されるまま、ベージュの椅子に座った。横をちらりと見ると、隣の席の女の人がパーマをかけていた。頭はすっぽり大きなヘルメットみたいな機械に隠れていた。
視線を前に戻して、そっと息を吐いた。シャンプーだけでも、だいぶ気分が晴れた気がする。美容院でのシャンプーって、特別だ。やっぱりプロの人はちがうな。
目の前にある大きな鏡を見ると、少しすっきりした顔の自分が映っていた。
ちょっとするとオニイサンが来て、ドライヤーで髪を乾かし始めた。私は鏡台に積まれた雑誌を手に取った。タイムリーなことに、その号の特集は「これで決まり! シチュエーション別デート服!」だった。釈にさわったから、わざとそこのページだけ飛ばして読んだ。
しばらくして、オニイサンの手に持つものがドライヤーからハサミに代わってからも、私は雑誌を読んでいた。美容師さんと会話をするのはあんまり得意じゃない。友達の中には恋愛相談をしてるっていう子もいるけど、私はどうもそういうのが苦手だ。黙って、ハサミが髪を切る小気味良い音を聞いている方が好き。前に通っていた美容院では妙に担当のオネイサンがお喋りで、毎回「アルバイトとかしてるの?」とか「行きたい大学とか決まってる?」とか訊かれた。返事をしたらしたで、「そうなんだー、私が高校生のときはねー」と延々と話が続いた。その点、今担当のオニイサンは見た目と違って意外に髪を切っているときは無口だし、こっちも気楽で助かる。
一冊目の雑誌を読み終えて、鏡台に置こうと顔を上げる。オニイサンと、鏡越しに目が合った。くすり、と何故か笑っている。
「今から彼氏とデート?」
私は目を見開いた。
なんでそんなこと思ったんだろう。
すると、顔に書かれた疑問を読み取ったみたいで、オニイサンは私が尋ねる前に自分で言った。
「いや、だってさん今日可愛い恰好してるし。気合いの入れようがいつもと違うからさ。靴も」
はは、と口元を緩めるオニイサンを見て、なんだか気恥ずかしくなった。そういえば、履いてる靴も今日おろしたばっかのパンプスだっけ。まあ、今日はデートじゃないから、オニイサンの勘違いなんだけど。それにしたって、まさかデートキャンセルされた腹いせで、こんなに気合いを入れました、とは言えない。私は、はははと自重気味に笑って、曖昧な返事をした。
「そっか。デートかあ。青春だなあ。オジサンは羨ましいよ」
笑いを肯定ととったのか、はあとわざとっぽく息を吐いたオニイサン(オジサンって自分で認めちゃったけど)は、また手を動かし始めた。
ただいま。そう独り言のように言って玄関に入ると、弟が2階からかけてきた。ドアを開けた音に気づいたらしい。何の用だろう。首を傾げると、弟は今にも堪えきれないとでも言うように、目を細めてにんまりとした。なにか企んでいる顔だ。
「姉ちゃん、すっげえいいこと教えてあげよっか」
「なによ」
「んーと、俺今こち亀集めたいんだよね。でもさ、全巻揃えるとめちゃめちゃ金かかるじゃん。姉ちゃん半額出してくれるなら教えてやるよ」
ひひ、と笑い声が漏れる。
弟は昔からなにかと条件をつける、取引めいたことが好きだ。最近ではノブのケーキの例がある。
「いいよ、別に教えてくれなくて」
私の言葉は玄関でそっけなく響いた。大体、良いこと、では漠然としすぎている。こち亀を集める資金の半分出してくれ、なんてぶっとんだ条件を出すからには、それなりの価値があるんだろうけど。
さっさと靴を脱いで上がると、弟が焦ってコートを引っ張ってきた。
「ごめん、ごめんって! 冗談だよ。さっきノブさんから電話あってさ、今姉ちゃんいないって言ってかけ直しますかって訊いたら公衆電話からだからいいですって言われてさ。でも俺姉ちゃんのために美容院行ってるだけだからもうちょっとしたら帰って来ると思いますよって言ってやったんだよ。そしたらまたかけ直すっだって。20分くらい前の話だから、もうすぐノブさんから電話くると思うよ」
話を聞いてきょとんとした私に、弟はお母さんに誰からの電話か訊かれたから、なっちゃんって言っといたよ、と付け加える。なっちゃんとは小学校からの友達の名前だ。
今の時刻はお昼ちょっと過ぎくらいのはず。公衆電話からってことは部活帰りにかけてきたのだろう。午後の練習がなくなったのかな。もしかしたら、会えるかもしれない。期待が胸をよぎる。
「ふうん。あんたにしては気がきくね。ありがと」
口元を緩めると、弟は得意気にはにかんだ。半分は無理だけど3分の1くらいなら漫画のお金は出してあげるかなと思い直すことにした。
たった今赤に変わった信号機。横断歩道を挟んだ向こう側の本屋の前に、ノブがいないか視線を投げる。店先のオレンジのラックには、本日発売と書かれた新書が山積みされている。そのすぐ側で、立ち読みをしている人影がいくつか。目の前を通る自動車の隙間から少しの間捜していると、店の壁に寄りかかっているノブを見つけた。ジャージにスポーツバッグ。いかにも部活してきましたって感じだなあ。くすりと笑った。
あれから5分も経たないうちに電話はきた。ノブは半分申し訳なさそうに、午後が開いたから、もし私に予定がなかったら会いたい、と受話器の向こうで言った。それで、今帰ってる途中だから、学校近くの本屋で待ち合わせて一緒に俺の家に行かないか、と提案したのだ。
ノブもこっちを見ている気がして、私は小さく手を振った。しかし、ノブは無反応だった。あれ? 明らかにこっちを向いているのに、てんで知らんふりだ。頭に疑問を浮かべながらも、もう一度手を振ってみる。今度はばっと後ろを向いたり、左右をきょろきょろ見渡したりしている。いや、右隣のサラリーマンは横向いているし、後ろは壁なんだから、ノブに振ってるんだよ。
ようやくノブは自分に向けられていると分かったみたいで、手を振り返してくれた。ふに落ちない表情で、首を傾げながらだったけれど。
信号が青になった。車が来ないのを確認して、小走りで横断歩道を渡った。本屋の駐車場の半分まで来ても、変わらず、ノブはきょとんとした表情を見せている。
「ノブ?」
近づいて、固まったままのノブの腕をとんとん、と軽く叩くと、ノブは目を丸くした。私の顔を凝視している。……ノブって結構整った顔してるから、あんまり見られると照れるんだけど。
しばらく沈黙が流れた後で、やっとノブが口を開いた。
「?」
すっとんきょうな返事に、こちらも眉を寄せた。何言ってんの。
「ねえ、ノブ大丈夫? 頭打ったんじゃない? あ、また練習中に余計なことして牧さんからげんこつくらったんでしょ」
下から覗き込むと、ノブの顔が一気にあかく染まった。なんだろう、この反応。
「おーい、ノブさん」
ふざけてノブの顔の前でひらひらと手をかざしてみる。すると、いきなりその手をノブに掴まれた。じっとノブを見ると、思いきり彼は顔を背けた。
「、お前反則だ」
「え、何が?」
「……すげえ可愛い」
今度は私が赤くなる番だった。話を聞くと、最初ノブは私が誰だかわからなかったらしい。近くに来て、声をかけられて初めて気づいたと。そこまで言われると、ちょっと複雑な気分だ。
「愛が足りないなあ」
「しょうがねえだろ! 顔とか服とか髪型とか、いつもと違ったんだからよ!」
ああ、確かに。私はくるくる柔らかくカールした毛先に指を通らせる。
美容院で、ブローの後。私の予定を勘違いしたままのオニイサンがわざわざコテを出してきて、髪を巻いてくれたのだ。せっかくのデートなんだから、と。ヘアコロンだとかクリームだとかもいろいろつけてくれた。服も靴も、ノブの前で着たことのない新品だし。顔が違うっていうのは失礼だと思うけど。
「あ、あとにおいも違う」
さらっと言いながら、ノブは私の首筋あたりに鼻をつけた。そういうこと急にされると心臓に悪いから、やめて欲しい。
「ノブと居るとき私香水つけないからにおいないもんね」
「いや、甘いにおいはいつもするぜ。なんていうか、違う種類の甘いにおい」
その言葉に、また私の頬は赤くなった。無意識に言ってくるのが、ノブの恐いところだ。
「……もう。早く行こう」
照れたのを隠したくて、ノブのジャージの裾を掴む。ばっと振り払われた。嫌だったのかな。心配になって、ノブの顔を見上げる。
「あ、や、悪い! 緊張しちまって」
「え、今更」
だからさ、とノブが顔をまた背けた。
「今日の、すっげえどきどきする」
その瞬間、心拍数が物凄い勢いで跳ね上がった気がする。でもやっぱりどこか照れ臭かった私は、今日ばっかり褒められても悲しいよ、と拗ねて返した。そうしたら、ノブはからっと笑った。
「あんまんと肉まんみてえなもんだろ。いつもは肉まんで今日はあんまん。だけどどっちも旨いのは変わんねえっていう。まあ、あんまんはたまに食べるからいいんだけどな」
真っ直ぐに目を見て言われた。ああ、そうか。私はとても納得した。
いつだったか深夜のテレビ番組で評論家が言っていた言葉を思い出した。
人生には少しのスパイスが必要なんです。
あんまんと孤独が何故か同じ一直線上にあるように思えた。
よし、行くか。そう言って、ノブは何でもないように、手を差し出した。
私はノブに気づかれないよう、そっと、肩の辺りで柔らかくカールした毛先に息を吹きかけた。日の加減によって焦茶色にも見える髪が、ゆらゆらと揺れる。
090310
単に春っぽい話が書きたかっただけ。