taramo

taramo  待ちに待った、昼を告げるチャイムが鳴る。
「お、じゃあ今日はここまでな。次当てる奴ランダムに決めるからな。皆予習しておけー。日直、挨拶」
 すぐに右斜め後ろから、起立が聞こえた。礼を済ませたあと、もう5月下旬だというのに、未だスーツ姿の律儀な初老の数学教師は、黒板消しで自分の書いた公式やらなんやらを消してから、教室を出て行った。
 ほとんどの生徒がまだ問題を解いていたり、教科書を机にしまったりしている中、もう三井はスポーツバッグから黒の財布を取り出していた。チャイムが鳴る5分前から落ち着かなく、ちらちらと黒板の右上に掛った時計に目をやり、ノートや教科書などはすっかり閉じて、筆記具も筆箱にしまっていたのだ。
 購買に早く行かないと、あのパンが買えなくなってしまう。
 湘北の購買は一階の一番南端の狭いスペースにある。昼休みには、主に運動部の男子生徒が廊下に長い列を作る。彼らの大体は2限目の休み時間に早弁したやつらだ。三井もその例外ではない。朝練があると、家から持ってきた弁当なんかでは全く足しにならないのだ。おばちゃんは毎回、およそ10種類のパンを5つか6つずつ持ってくる。全て売り切れることは滅多にないのだが、それでも遅くなればなるほど、プリンプリンというヘンテコな名前のパンや、腹の足しになりそうにない、安くて小さいアンパンしか買えない状況になる。
 そんなわけで、購買を利用する者、特に目当てのパンがある者にとって、3限の授業が終わると同時に南側の階段を駆けてくだるのは、常識だった。南側の階段は、購買のすぐ横に直結しているのだ。


 三井が教室のある4階から1階まで降りると、すぐ脇にある購買には既に列が出来ていた。おばちゃんの元気な勘定の声が相変わらず響いている。ひょいと人だかりの後ろからおばちゃんの胸元辺りまであるガラスケースを覗くと、目当てのパンはまだ6つ残っていた。それぞれ、コンビニみたいに透明な袋で包装されている。こんなとき、背がまあ高くてよかったもんだと心底思う。思わず頬が緩みそうになり、ぐっと下唇を噛み締める。
 慌てることもねえか。
 三井はゆっくり歩いて、列の最後尾に並んだ。自分の前に居るのは6人。その先頭の男子は、今ガラスケースを挟んだ向こう側のおばちゃんに、メロンパンと焼きそばパンを注文した。
 よし、これでほぼ買えるな。
 同じ種類のパンを2つ頼むやつなんて滅多にいないから、今男子の注文から漏れた三井目当てのパンは、ほぼ手にすることができると決まったのである。三井はおばちゃんがガラスケースからパンを出し、テキパキと白い小さなビニールに入れていく様を見て、小さなガッツポーズをあげた。自然に余裕も出てくる。
 アレの他に焼きそばパンとコーンパンは買っとくか。
 三井は余念なく前に並ぶ女子の後ろからまだ距離のあるガラスケースを見つめ、おおよその見当をつけた。

 しかし、ここで予想外なことに、三井目当てのパンは6つから3つに一気に減った。先頭の男子が去ってから、前に並んでいた3人が立て続けにそれを注文してしまったのだ。三井は眉を寄せるが、どうしようもない。無意識に舌打ちをして、前にいた女子に怖がられてしまった。だが、よくよく考えれば、もう前に並ぶのは背は高いがひょろっこくてどこか頼りなさげな男子と、前にいる女子の2人だけだ。仮に2人が1つずつそれを頼んだとしても、必ず1つは余る。当初、あわよくば2つ買おうと思っていたが、この際仕方がない。
 ガラスケースが近づくにつれ、三井の鼓動は高鳴った。
「はいはい、なんにする?」
 おばちゃんに愛想よく聞かれたひょろっこい男子は、口をもごもごと小さく動かし、ガラスケースに残るパンをきょろきょろと覗いて吟味していた。決めかねているらしい。
 そんくれえ最初に決めておけよ、アホ。
 心の中で悪態をついていた三井だったが、一方では祈る気持も強かった。
 頼むからアレ以外にしろ、ひょろ松!
 彼の祈りが天に届いたのか、しばらくしてひょろ松と三井が勝手に命名した男子は、よし、と顔を上げた。
「おばちゃん、たまごサンドと三色パン」
「はいよー」
 ひょろ松の言葉を耳にした三井は、本日二度目のガッツポーズをあげた。
 未だガラスケースに残るアレは3つ。予定通り、2つ買えるかもしれない。おばちゃんが慣れた様子で白いビニールにたまごサンドと三色パンを納めていくのを見て、また口元が緩みそうになった。それを抑えるように下唇を噛み締めて、三井は自分の番を待った。そうとは言っても、ひょろ松が去って、前に居るのは可愛らしいピンクの長財布を持った女子ただ1人。全くとるに足らない。

「はいはい、お待ちどう、なんにする?」
 ふう、と一息吐いておばちゃんが言う。やっと女の番が来た。あと少し、あと少しだ。
「えーと……」
 この女子もひょろ松と同じく、ケースの上の段から下の段までを顎に右手をあてて見渡していた。この際彼女がいくら迷っても構いやしない。なにせ、パンを手にすることはもはや三井にとって決定事項なのだ。
「おばちゃん、タラモ3つ」
「あ?」
 笑顔と共に発せられた可愛らしい声の後、おばちゃんの返事より先に、三井の低い声が割り込んだ。三井は初め、女の言ったことが理解できなかった。ひくひくとこめかみが引きつっているのが自分でも分かる。
 こいつは今なんつった? タラモ? しかも3つだと?
 三井の声に振り返った女子は、彼の顔を見て明らかに動揺し、後ずさった。それほど恐ろしい顔をしているらしい。おばちゃんはこの気まずい空気に気付かず、はいよ、と手際良くビニール袋にタラモを入れ始める。
「はい、420円ね」
 おばちゃんから袋を差し出され、三井の方を向いていた女は我に返ったらしく、慌ててピンクの財布を開け支払いを済ませた。
 袋を素早く受け取った女は、三井から逃げるように小走りで廊下の角を曲がった。姿は見えなくなって、誰かと話す声だけが微かに聞こえる。

「あ、ちゃん、パン買えた?」
「うん。……でもなんか後ろに並んでた人にすっごい睨まれたよ」
「え、怖くない? 誰?」
「知らない人」
 その会話に三井は更に腹が立って、手に持っていた黒の財布をぎりっと絞るように握った。
 前に居た女はと言うらしい。自分は校内でわりと有名な方(不良だった頃の悪行のせいにしろ、バスケの功績のためにしろ)だと思っていたのだが。バスケ部に戻るきっかけとなった体育館での乱闘事件はまだ記憶に新しい。
 俺を知らねえってことは入ったばっかの1年か?

 曲がり角に視線を投げ、耳を澄ませていると、とかいう女の友達と思われる女が、じゃあ、私見てあげる、と言うのが聞こえた。それと同時に壁からひょっこりツインテールの女子の顔が出てくる。三井とばっちり視線がかち合ったそのツインテールは、わ、と間抜けな声をあげ、また壁の向こうに引っこんだ。
「はい、なんにする?」
 おばちゃんに呼ばれ、はっとした三井は、慌てて視線をガラスケースに戻した。タラモがすっかり消え去ったスペースは、そこだけ虚しくぽっかりとあいている。当初の予定が大分狂ってしまった。
「あー。焼きそばパンとコーンパンとー」
 言葉に詰まった。タラモになるはずだった、もう1つがなかなか決まらなかったのだ。かと言って2つしか食べなければ、部活まで腹が持たない。
 あれほど馬鹿にしたひょろ松と同じように、屈んでガラスケースを覗く羽目になった自分を、少し情けなく感じた。
 それもこれも、あのタラモ女のせいだろ。
 じろりと横目で向こうにまだ二人がいるだろう壁を睨んでいると、また彼女らの声がした。

「今ちらっと見たけどさ、あれ三井だったよ」
「え、誰?」
「3組のさ、バスケ部に最近復活したやつ。あの背高くてわりとカッコイイ人。この前みっこが髪切ってからファンになったって騒いでたじゃん」
 耳を傾けていた三井はお、ツインテール、それにみっことか言うやつ、お前らよくわかってんじゃねえか、と内心ほくそ笑んでいた。
 そしてすっかり気をよくした三井は、先ほどと違った弾んだ声でおばちゃんにあとベーコンパン、と注文した。まあ、今回はツインテールとみっことかいうやつに免じてってやつの諸行は許してやろう、と言う気さえ生まれた。

 三井は代金をおばちゃんに渡し、パンの入ったビニールの持ち手を指先にひっかけ景気よく振りまわしながら、階段をのぼっていく。途中で下からタラモ女のこんな声さえしなければ、良い気分のまま午後を迎えられたかもしれない。
「あ、わかった。三井くんって、この前まで歯抜けだった人?」
 三井は眉がくっつきそうなくらい眉間に皺を寄せた。歯をぎりっと噛み締めながらぐしゃりとパンをビニールの上から握った。不幸なことに潰れたのは焼きそばパンだったらしく、握った手に焼きそばのぐにゃりという嫌な感触が薄いビニールを一枚挟んで伝わってきた。


 昼休み終了を告げる予鈴がなった。にわかに、周りが忙しく動き始める。5分後には、午後の授業が始まる。三井は机に散らかるパン屑を、床に払い落とした。壁に貼られた時間割に目をやると、どうやら次は日本史らしい。三井はがしがしと頭を掻きながら、バッグから教科書を引っ張り出した。教室を移動しなくてはならない。
 選択教科は、基本的に4組と合同で授業を受けることになっていて、その教科ごとに、クラスが違うのだ。世界史選択の生徒は3組、日本史選択の生徒は4組という具合になっている。
 面倒くせえ。三井は気だるげに、欠伸をひとつした。
 本鈴が鳴り終わっても、教科担当の教師は現れなかった。普段は時間に厳しいやつだけに、珍しい。
「鈴木のやつ、今日休みじゃねえの? 自習にしようぜ、自習」
 そんな声も聞こえてくる。徐々に教室が喧騒に包まれていく。
 三井はどちらにしろ、居眠りの時間にする予定でいたので、あまり興味はなく、頭の後ろで腕を組み、焦点を定めず黒板をぼんやり眺めていた。
 ガラっと音を立て、入口のドアが開いた。一瞬にして、教室は静まり返る。
 しかし、入ってきたのは鈴木ではなく、3組で授業をしているはずの、世界史担当の吉川だった。
 教卓の前に立ち、咳払いをする。
「えー、言い忘れたんだが、今日鈴木先生は風邪で休みだ。というわけで、大人しく自習してろ。お前ら、隣のクラスは授業やってんだから、煩くするなよ」
 自習、の言葉が出た途端に、あちこちで歓声があがった。この分では後半に言った注意は耳に入っていないだろう。吉川は一段高いそこから、ぐるりと教室を見渡した。
「一応、出席だけとっておくぞ。いないやつだけ教えろ。3組から」
 すぐに、教科委員が答える。
「先生、佐々木くんが欠席です」
 吉川は頷きながら座席表を確認し、手に持っていた赤い出席簿に鉛筆で書き込む。
「次、4組」
「欠席はいません」
 吉川はまた出席簿に書き込んだ。そして顔を上げると、教室の後方に視線を投げ、怪訝そうに眉を寄せた。
「なんだ、三井の隣も空いてるじゃないか。誰だ、その席は」
 その問いかけは、明らかに三井に向けられていた。三井はばっと横を向く。確かに、隣は空だった。席が空いていることに、ちっとも気づかなかった。そんな状態だ。誰が座っていたかなんて、覚えているはずがない。授業は大抵眠ってしまうのだから。
 誰というか、隣に人座ってたか? 吉川のやつ、俺に訊かないで座席表見ればいいだろ。
 返事ができずに黙っていると、前に座っていた女子生徒が代わりに答えた。
「先生、さんです。もうすぐ来ると思います。昼休みに委員会があったんで」
「おお、そうか」
 納得したらしい吉川は、くれぐれも煩くしないように、と言い残して、教室を出ていった。
、今日自習でよかったよねえ。もし鈴木が来てたら、いくら委員会って言ったって、確実にどやされてたよ」
 ひそひそと、女子二人が前で話している。
「うん、ラッキーだったよね。、もう来るかな?」
 会話に耳を澄ませていた三井は、顎に手を当てて考えた。。そういえば、さっきのタラモ女もそんな名前だった気がする。


 思い出す間もないうちに、また教室の後ろのドアが開いた。しかし今度は、とても控え目な音だった。周囲を窺うように、少し屈んだ体勢で、は教室に足をそっと踏み入れた。三井はその顔を見て、ぎょっとした。やはり、件のタラモ女だった。
 一人の女子が、に気づいた。
「あ、。遅かったじゃん。大丈夫、今日は鈴木いないから自習だって!」
「そうなんだ。よかったあ。怒鳴られるかと思ったよ」
 安堵のため息を吐きながら、はそそくさと自分の席に座る。
 不意に、隣に目を向けたは、一瞬にして顔をこわばらせた。三井が睨んでいたからに他ならない。だが、心当たりがなかったは、ぎこちなく目を反らし、首を傾げる。その態度にまたいらついた三井は、とうとう声を荒げ、まくし立てた。
「お前、さっきのタラモ女だろ!」
「へ?」
 どこまで鈍いのか、まだに気づく様子はない。彼女の目は、何の話ですかとでも言いたげに、丸くなるばかりである。
 大声を上げたせいで、教室中の視線は三井に集まっていたが、本人はそれどころではなかった。
 状況を理解していない彼女に、三井は昼の出来事をできるだけ詳しく丁寧に説明した。自分がタラモを買おうとしていたこと、がそれを全てかっさらっていったこと。多少、口調がぶっきらぼうになってしまったが構ってはいられない。
 そして最後に、歯抜けについて付け足した。
「どんだけ俺がタラモを楽しみにしていたか、お前にわかるか!」
 三井は机に拳を降り下ろした。豪快な音を立てて、机が揺れた。びくっと、の肩がこわばる。
 しかし次の瞬間、三井が立てた音よりもっと大きな音が、教室に響いた。
「うるさいっ! お前らは3年にもなって、静かに自習もできんのか!」
 ドアが壊れるんじゃないかと思う程の勢いで開いた。吉川は鬼の形相だった。眉を吊り上げたその顔は、血管が浮き出そうなほどに赤い。一瞬にして、うるさかった空間が、奇妙なほどの静寂に包まれる。吉川は教室を鋭い眼差しで一瞥し、またドアを轟音と共に閉め、去っていった。

 さすがに今度は、一言も話す人間はいない。各々、教科書や資料集を開き、勉強し始める。
 三井とは、互いに顔を見合わせた。気まずい空気が流れる。沈黙を破ったのは、彼女の頓狂な言葉だった。
「タラモって、おいしいよね」
「ああ」
 予想外な台詞に、三井はただ同意するしかできなかった。なにをどんな風に考えれば、そんな言葉が出てくるのか。彼にはまったく彼女の思考回路が理解できない。それでも、とりあえず自分も何か言わなくては。そう思って、日々の疑問を口にした。
「……なんでタラモなんて名前なんだろうな。タラコならわかるけど」
「タラコとジャガイモのパンだからタラモだよ」
「は、ジャガイモ? ジャガイモなんて入ってたか?」
「パンの上に乗ってるやつ、見た目からしてジャガイモじゃん。今度買うとき袋についてるパッケージ見てみなよ。ちゃんと原材料の欄に書いてあるから。というか、そんな基礎知識すら知らずにタラモのこと語ろうなんて、百年はやい!」
 がふざけてぱしっと、三井の肩を叩く。一息ついてから、彼女は思い出すように、遠くを見た。
「購買で、どこかで見たことある顔だなーって思ってはいたんだけど、まさか隣の席だったとはね」
 不良だったころの顔は、強烈で覚えているんだけど。歯なかったし。
 は言った。
「俺もまさか、隣がタラモ女とは思ってもねえよ」
 それはそうだと、は微笑した。そして、三井に向かって、手を差し出す。意味がわからずに戸惑っていると、彼女はにやり、と口の端を上げる。
。タラモ女じゃないから。タラモ好き同士、よろしくね。あ、でもライバルに手加減はしないよ」
 三井も、にやり、と返した。
「おうよ。明日から購買のタラモ、全部俺がかっさらってやるぜ」
 出された手を力強く握る。なるほど、退屈な日常に、部活以外の新たな楽しみが見い出せそうだ。




090324
わりあい楽しく書けました。本当は連載にするつもりだったのに、あれよあれよと短くなった……。